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満州事変から日中戦争へ、盧溝橋の一発ではじまった日中戦争!

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もりもりです。

日中戦争。

1937年(昭和12年)7月7日夜、日本軍が夜間軍事演習中に中国軍から発砲があったとして、攻撃をはじめたのです。

これが、日中戦争のはじまりとなった、いわゆる盧溝橋(ろこうきょう)事件なのです。

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太平洋戦争知れば知るほど参照 

盧溝橋事件を口実に、中国への全面侵略を開始する

日本はすでにその6年前に鉄道爆破の謀略事件(柳条湖事件)を起こし侵略を開始し中国東北部にかいらい政権の「満州国」を建国していましたが、盧溝橋事件を口実に、
中国への全面侵略を開始します。

 

昭和初期、政治課題は山積(さんせき)していた。

 

経済危機による相次ぐ倒産、労働運動激化、小作争議、農村の疲弊(ひへい)、テロ横行が社会をゆるがしていました。

 

中国の反日抗争が激しくなる

対外的にはソ連共産党の脅威、中国の明治期以来の反日抗争が激しさを加え、米英が中国を支配する態勢をとりつつあることも問題を複雑にしていた。

 

軍人たちが、政府を無能呼ばわりして危機感を強め、国家改造を唱えたのは短絡すぎるが、国家改新の考え方は間違っていない。

 

しかし、経済危機打開のために、中国に領土を確保して国力増強を図ろうとしたのは、
あまりに稚拙(ちせつ)な論理だった。

 

対中国戦争の発火点は奉天郊外(現瀋陽)の柳条胡(溝)だ。

昭和6(1931)年9月18日、満州(中国東北部)を中国から分離させ、日本に組み入れることを主張していた関東軍が南満州鉄道の線路を爆破する。

 

そして、爆破を中国のせいにして軍事行動を起こした(満州事変)。

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満州国をつくる

この事変に端を発して、日本は満州国をつくり、長引く日中戦争が続けられる。

 

やがてこれが太平洋戦争へと結びついていく。

 

2.26事件のあった11年は、中国では抗日運動が燃え盛っていた。

 

反日でも隊による日本人殺害事件(9月)、「国恥記念日」(満州事変勃発日)の抗日テロ活動など、毎月のように大きな事件が発生していた。

 

その最大のものが翌12年7月の盧溝橋事件だった。

 

豊台地区に駐屯し、夜間訓練をしていた日本軍が7月7日夜、中国軍から突然、10数発の銃弾を浴びせられた。

 

我軍は謝罪要求のため北平駐屯軍より森田中佐現場に急行したが、支那(中国)軍は8日午前4時半再び発砲したため止むなく応戦と当時の新聞は、この事変を伝えています。

 

どちらが先に銃を発射したのか、これは今もナゾとされています。

 

盧溝橋にとどろいた銃声で陸軍は勢い立ちます。

 

満州事変後、蒋介石の国民政府は、日本が樹立した満州国は認められないとして国際連盟に提訴する。

 

国連が満州国の主権は中国にあると裁定したため、日本は国連を脱退(8年3月)し、国際的に孤立を深めていたので、国連に気兼ねする必要はなかった。

 

中国一激論に押されて全面対決へ

 当時、陸軍の対中国対策には二つの主張があった。

中国一撃論と一撃不要論である。

 

一撃を加えれば中国はすぐに屈服するだろうから、軍事行動によって北京や天津などの重要都市を制圧し脅威となっているソ連に備えるには絶好の機会ととらえていたのが前者で後者は仮想敵国はソ連なので、当面は中国に共産党政権ができないように監視しているだけでよいとするグループだ。

 

一激論者はのちにA級戦犯として処刑された武藤章、東条英機ら統制派が主力で、満州事変を計画した石原莞爾らは一撃不要論だった。

 

時の首相近衛文麿(12年6月組閣)は、7月11日、強硬な一激論を採用して内地の三個師団を含む五個師団を中国に派兵することを決定し、武力により中国を屈服させようとしました。

 

中国との全面戦争

同月28日、日本軍は華北で総攻撃を開始して天津を占領、8月には上海で海軍陸戦隊と中国軍が交戦し、ついに全面戦争へ突入となります。

 

一方の蒋介石政府も徹底交戦を表明し、一撃不要論者を中心に、一時は外交で事態の解決を図ろうとしていた和平の道は完全に閉ざされてしまった。

14年末までに中国に派遣された軍人は100万人にものぼったのです。

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