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邪馬台国は日本のどの場所にあったのでしょうか?いちばん優勢なのが畿内説!

 

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もりもりです。

邪馬台国はどこにあったのだろう?

九州?本州?

海の中にあったのではないか説まであります。

現在の日本地図上ではありますが。

実際には、どこが正解なのでしょうか?

気になる情報を調べてみました。

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邪馬台国はどこにあった?

邪馬台国は、文献に残る最初の国家らしい国家ですが、日本国内には文字資料がなく、『魏志倭人伝(ぎしわじんでん)』が唯一の記録なのです。

 魏志倭人伝の現代語訳

 『三国志』の一書である『魏志(ぎし)』、その第30巻『烏丸鮮卑東夷伝』(うがんせんぴとういでん)に含まれる『倭国(わこく)』と『倭人(わじん)』に関する記述の略称が『魏志倭人伝』となります。

 

『魏志倭人伝』最大の謎と言えるのが、邪馬台国の場所に関する表記です。

 

『魏志倭人伝』*1に書かれている、邪馬台国の位置に関する記述をその通りに解釈すると、邪馬台国はなんと九州南方の海の中にあったことになってしまうのです。

 

海の中?

これが本当なら、「邪馬台国のあった場所が地震で沈んだ」としか考えられません。

 

しかし、『魏志倭人伝』の記述に間違いがあるとしたらどうでしょうか?

どの部分を「間違い」と考えるかによって、さまざまな説が考えられます。

 

今の京都に近いとする「畿内(きない)説」と、九州にあったとする「九州説」の二つが有力視されています。

 

畿内(きない)説・・・

九州とする説と畿内*2とする説がです。

 

九州説・・・

佐賀県の吉野ヶ里周辺、筑後の山門、阿蘇、奄美大島と候補地がいくつもあります。

 

 

大和朝廷は邪馬台国のあった場所に作られた・・・

大和朝廷の本拠地は畿内です。

邪馬台国が畿内にあったとすれば、時期から見ても、あらたに違う場所ではなく、邪馬台国のあった場所に作られ、そして発展し、大和朝廷になったと考えるのが妥当なのではないでしょうか。

 

ほかに、邪馬台国は当時争っていた狗奴国(邪馬台国の南にあったという)に滅ぼされ、狗奴国が東へ勢力を伸ばして大和朝廷になったという説もあります。

 

少なくとも『魏志倭人伝』の場所に関する記述はあてにならないため、考古学的研究はいろいろな角度から検証がなされています。

 

「邪馬台」の発音は「大和」・・・

当時の「邪馬台」の発音は「大和」と同じだったらしく、邪馬台国が大和朝廷の前身である可能性は高いとされています。

 

また、邪馬台国の上層階級はお辞儀のかわりに手を打つという習慣があったとされるが、これも大和朝廷の神道と同じです。

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黒塚古墳から銅鏡大量出土で畿内説が優勢!

大和朝廷は4世紀半ばには成立したと推定されています。

卑弥呼の時代から1世紀ほどです。

 

1998年に、畿内の黒塚古墳(奈良県天理市)から大量の銅鏡(三角縁獣鏡)が出土したことが考古学上の有力な手がかりとして、おおいに注目されています。

 

この古墳が3世紀末のものであるため、すでにこの時期に大和朝廷が畿内で支配力を固めていたと見ることができるためなのです。

 

この結果、九州説よりも、やや畿内説が優勢となったのです。

 

今後の発掘調査の進展により、いずれこの論争も決着がつくかもしれませんね。

魏志倭人伝に倭(日本)はどのように書かれているの? 

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魏志倭人伝 - Wikipedia

「魏志(ぎし)」とは中国にあった魏(ぎ)という国の歴史書のことで、「倭人(わじん)」とは倭(わ)の国の人、つまり昔の日本人のことです。

「魏の歴史書にある日本人についての記録」ということです。

 

当時、日本には文字が無かったので中国の歴史書を頼るしか方法がありません。

 

 魏志倭人伝は「三国志」の中の「魏書」の さらにその中の第三十巻「烏丸・鮮卑・東夷伝」に書かれている「倭人条」の呼び名です。

魏志倭人伝は三国志のほんの一部に書かれた文章で文字数は、たったの2000字程度しかありません。

つまり、日本のことだけを調べて書かれてはいないということです。

 

誰がいつの時代を書いたものなの?

三国志は3世紀末の「280年〜290年代」に書かれたものなので、魏志倭人伝もその時期に書かれたものです。

陳寿という官僚が、実際に日本に行った人の話を聞き、それをまとめたものなので、結構大さっぱで ざっくりしたものが多いようです。

 

西暦238年のことが書かれている・・・

魏志倭人伝には「景初2年」などの年号が出てきます。

これは西暦238年のことです。

魏志倭人伝は280年〜290年代に書かれていますので、書かれたときから40〜50年ほど前の倭(日本)のことを書いています。

そういう意味では信ぴょう性が高いのではないかと考えられています。

 

そのため、魏志倭人伝は邪馬台国研究で重要な材料として取り上げられているのです。

 

当時の倭(日本)の姿・・・

倭国という大きなくくりの中に、30ぐらいの国があると書かれています。

今の県のような小さな単位で国があったんですね。

 

そして、その中に卑弥呼を女王とする邪馬台国がありました。

 

一般に、卑弥呼が女王になる前までは争いがずっと続いていて、各国が卑弥呼こそが倭国の女王だと認めてからは争いがなくなったといわれています。

 

しかし、魏志倭人伝にははっきりと卑弥呼が女王になったことで争いがなくなったとは書かれておらず、「昔は争いが起きていた」というようなぼんやりとした表現でしか書かれていません。

 

魏志倭人伝には邪馬台国が、はるか遠くの魏に貢物(みつぎもの)を送り、これを喜んだ魏の皇帝は卑弥呼を倭(日本)の王だと認定する「親魏倭王(しんぎわおう)」の称号を送ったとも書かれています。

 

わざわざ魏から称号をもらわなければいけないほど、当時の日本は国力の弱い、小さな国だったのですね。

魏志倭人伝について書かれているおすすめの書籍です。

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まとめ

邪馬台国のあった場所を調べることなど、文献に書かれていることだけでは判断できないことでしょうね。

今日も読んでくれてありがとうございました。

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*1:魏志倭人伝(ぎしわじんでん)は、中国の歴史書『三国志』中の「魏書」第30巻烏丸鮮卑東夷伝倭人条の略称[1]。当時、日本列島にいた民族・住民の倭人日本人)の習俗や地理などについて書かれている。『三国志』は、西晋陳寿により3世紀末(280年(呉の滅亡)- 297年(陳寿の没年)の間)に書かれ、陳寿の死後、中国では正史として重んじられた[2]。(Wikipedia)

*2:畿内とは以下の5国である。近現代の行政区分では、大阪府の大部分と、京都府の南部、兵庫県の南東部、奈良県の全域に当たる。(Wikipedia)