もりもりです。
満洲国建国と日中戦争。
満洲国建国で、よりいっそう日中戦争は泥沼化することになります。
そして、米英が中国を支援することで、米英と日本が対立するようになったのでした。
これが太平洋戦争のはじまりです。
・満洲国とはどのような国なのか?
・統一戦線を結成して日本軍に立ち向かう
・停戦交渉決裂、戦争続行を決めた近衛内閣
・米英の中国支援で日本との対立が本格化
について調べてみました。
最後まで読んでくださいね。
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満洲国とはどのような国なのか?
https://www.y-history.net/appendix/wh1504-041.html
<世界史の窓より画像引用>
満州国とは、1932年(昭和7)から1945年の間、
満州事変によって占領した中国東北部(現在の黒竜江省・吉林省・遼寧省・内モンゴル自治区北東部)に存在した国家です。
首都は新京(長春)。
翌年熱河省も加えた。
政府の要職には満州人を起用しますが、事実上は日本人官吏および関東軍の指導下にあったのでした。
1945年8月、日本の第二次世界大戦敗北とともに消滅します。
帝政移行後は、「大満州帝国(大滿洲帝國)」あるいは「満州帝国」などと呼ばれていました。
統一戦線を結成して日本軍に立ち向かう
日本による満洲国建国によって、不況にあえぐ日本人が開拓団として満洲に続々移民し30万人にも達します。
政府も官僚を派遣して満洲鉄道をはじめとする「輸送、殖産興業」に力を注ぎ、新興企業が育成されて、日本に本拠を持つ企業は次第に肥大してコンツェルンを形成していきます。
日中間には、一時停戦の気運もみられたようです。
しかし、経済進展を企図する経済界は一時停戦を喜ばなかったのです。
戦争を止めるよりも経済拡大を選んだのでした。
人の命は軽く考えられていたのでしょうね。
そして、日本軍は満洲ばかりか、華北にも日本の息のかかった政権を作ろうと攻撃を続け、反日運動をますます激化させることになったのでした。
日本と戦争が始まった杜氏、中国は、蔣介石の国民政府と毛沢東率いる共産党の内戦状態にありました。
しかし、日本軍の大陸各地への進軍で蔣介石は内戦停止を宣言し、昭和12(1937)年9月、共産党と手を握って統一戦線を結成して、共同で日本軍に立ち向かうことになったのです。
日中両軍が同年8月に上海で激突したとき、中国軍は「1本1草、鶏1羽も日本には渡さない」とすさまじい抵抗ぶりをみせ、日本軍が9000人の死者を出すほど強力に戦ったのでした。
日本軍は多くの尊い命を犠牲にしたのでした。
本国から三個師団を増派した日本軍は上海を陥れ、さらに国民政府の首都である南京も攻撃、同年12月13日、南京を占領します。
[上海軍午後10時発表]
我が南京城攻撃軍は13日夕刻、南京城を完全に占領せり、江南の空澄み、日章旗城高く夕陽に映じ、皇軍の威容柴金山を任せり。
この第一報で日本国民は沸き立ち、翌日、全国で祝賀の提灯行列が催された。
さらに発表は続く。
[上海軍30日午後6時発表]
南京攻略に当たり、敵の遺棄せる死体は8万4千の多きに達し、我軍の戦死は8百、戦傷4千。
多くの戦死者をだします。
※殖産興業とは
明治前期に資本制生産様式移行のため政府が展開した産業保護育成政策。
富国強兵と並び当時の重要政策である。
産業機械・技術を導入し,軍事,鉄道,鉱山,通信,造船等の官営工業や紡績,製糸等の模範工場を経営する一方,助成金,輸入機械払下げなどで私企業も育成した。
停戦交渉決裂、戦争続行を決めた近衛内閣
一方、南京攻防で「百人斬り競争」をしたとの報道もありましたが、実際にはそんな事実はなかった。
戦後この事件は真実のように南京大虐殺の代表例とされています。
南京城入城前後、民間人を含めて多くの中国人が虐殺されたが、その数はわかっておらず現在も論争の的となっています。
南京攻略直前、中国駐在のドイツ大使トラウトマンが両国の仲介に乗り出したが、近衛内閣は経済拡大を優先して和平に消極的で、結局、戦争中止の道を取らなかった。
この際、近衛文麿首相の発言した「日本は国民政府を相手とせず」が「○○を相手とせず」として流行語となった。
近衛は国民政府の重鎮(じゅうちん)、汪兆銘(おうちょうめい)に新国民政府をつくらせて操縦しようとしたもののうまくいかず蔣介石はなおも抵抗します。
米英の中国支援で日本との対立が本格化
日中両国の戦争は一進一退を繰り返しながら、
徐州、武漢攻防とだらだらと続き、
米英が中国へ支援をすることによって、
今度は日本と米英が激突し、太平洋戦争の戦端が切られることになる。
フィリピンを根拠地とするアメリカをはじめ、
イギリス、オランダが支配するアジア地域に進出がするのが、
日本の作戦だ。
それには各地に軍隊を派遣しなければならず、
海軍輸送力が問題だった。
海軍は米英戦に反対だったが、もはや戦いは避けられない情勢と
なっている。
海軍の戦闘見通しを尋ねられた
山本五十六(やまもといそろく)連合艦隊司令長官は
「やれと言われれば半年や1年は暴れてご覧にいれます。
だが、
2年、3年となると確信が持てません」と答えた。
結果は山本の回答通りとなった。
<太平洋戦争知れば知るほど参照 >
まとめ
日中戦争がなければ、米英とも対立することもなく、太平洋戦争はさけれたかもしれませんが、今でも戦争をし、平和な日本は訪れていなかったかもしれません。
戦争ほど無残な行為はありません。
なんの罪のない人の命を奪うのですからね。
今日も読んでくれてありがとうございました。
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