もりもりです。
カトリーヌ王妃(カトリーヌ・ド・メディチ)は、決して美貌の持ち主ではなかったが、魔術愛好家、毒薬の常習者であり「ルネッサンスの悪女」としてあだ名される。
悪女とは、歴史上、美貌や権力を駆使して悪逆非道の限りをつくしたり、愛欲と悪徳によって身を滅ぼした女性のことです。
しかしそれは彼女の真の姿なのだろうか?
最後まで読んでくださいね。
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カトリーヌ王妃
カトリーヌ・ド・メディシス
カトリーヌは、イタリア・フィレンツェの大富豪メディチ家(フランス語読みでメディシス)で生まれます。
父:フィレンツェの僭主(せんしゅ)ロレンツォ2世・デ・メディチ。
母:マドレーヌはフランス貴族の娘。
カトリーヌ:イタリア生まれ、生まれた時は「カテリーナ・ディ・ロレンツォ・デ・メディチ」という名前。
出生: 1519年4月13日
死去 :1589年1月5日(69歳没)
結婚: 1533年10月28日
配偶者:アンリ2世
在位: 1547年3月31日 - 1559年7月10日
カトリーヌの幼少期と結婚
カトリーヌは、フィレンツェの大富豪メディチ家(フランス語読みでメディシス)に誕生します。
本当なら大富豪の家で生まれ、裕福な生活が送れる人生のはずですが、不幸なことにカトリーヌが生まれて、すぐに母が亡くなり、そして父までもが梅毒によって急死したのです。
生まれて、数十日で両親を亡くし、孤児となってしまったのです。
そのために、親戚や尼僧院で育ちます。
しかしそんな環境のなかでも、カトリーヌは、「文学、語学、芸術、哲学、自然科学」と豊かな教養を身に着けたのでした。
このような複雑な環境で育ったので、忍耐強い少女と成長していきます。
一時奪われたメディチ家の権力は、1530年にカール5世の支援で復活します。
教皇クレメンス7世はカトリーヌを迎え、年頃になっていた彼女の夫探しを始めました。
いくつかの候補がある中、オルレアン公アンリの縁談に話がまとまったのでした。
ヨーロッパ一優美なフランス王族のアンリと、富豪ではありましたが貴族ではないメディチ家出身のカトリーヌ。
周囲から「不釣り合いだ」という理由で、結婚に反対もありましたが、イタリアとの関係とメディチ家の財産を狙ったフランソワ1世(アンリの父で当時のフランス国王)が断行しました。
そして、フランス・ヴァロア家へ嫁ぎます。
14歳でアンリ王子結婚する
1533年10月28日、カトリーヌ14歳のときにアンリ王子と結婚式を挙げました。
2人は共に14歳で、は莫大な持参金と千人もの従者を従え、イタリアから嫁ぎます。
フランス・ヴァロア家へ嫁ぎ、華やかな生活がスタートするはずでしたが、またしてもカトリーヌに不幸が舞い込みます。
結婚して一年足らずで、カトリーヌの後押しをしていた教皇クレメンス7世が亡くなってしまったのです。
新教皇パウルス3世は、約束していたカトリーヌの持参金の支払いを拒否してしまったのです。
メディチ家の財産を狙っていたフランソワ1世からすれば、メディチ家の財産を手に入れることができず、「この少女は素っ裸で私のところへ来た」と嘆いたそうです。
さらに彼女を苦しめたのは、夫アンリには母ほども年の離れた愛人がいたのです。
ディアーヌ・ド・ポワチエというこの愛人は、いくつになっても老いることなく美しく、また政治的センスも持ち合わせた才色兼備な女性でした。
それに対し、不幸の中を生きてきたカトリーヌは目が突き出たメディチ家特有の顔をしており、消して美しい女性ではなかったそうです。
どこか陰があり、華やかさに欠けていたのです。
アンリが王位に就く
1536年にアンリの兄が病死し、王位継承権がアンリに譲られます。
フランス王妃になることも視野に入ったカトリーヌにとって、いよいよ夫アンリとの子をもうけなければなりませんでした。
しかし相変わらず夫の愛はディアーヌに向けられ、カトリーヌを相手にはしてくれません。
周囲の目も冷ややかで、夫婦に子供ができないのはカトリーヌの方に問題があるのではという声まで出ています。
1537年にアンリは別の愛人との間に子供を授かっていたため、カトリーヌは何としてでも王 太 子(おうたいし)*1を生み、
王妃としての役目を果たさなければと考えます。
そして子供を授かるためなら、呪いや薬は何でもためしたそうです。
そんな中、恋敵であるはずのディアーヌがカトリーヌの寝室に頻繁に訪れるようになります。
子供を授かるためのアドバイスをさずかったのかもしれませんが、1544年1月20日にカトリーヌはついに念願の第一子を授かります。
恋敵(こいがたき)である、ディアーヌがなぜ、カトリーヌを気遣ってアドバイスしたのでしょう?
不思議ですよね。
しかし、もともとディアーヌは2人の結婚には賛成していたそうです。
ディアーヌはアンリの家庭教師をしていたので、2人に子供が生まれないことを心配していたのかもしれませんね。
その後は、カトリーヌは妊娠と出産を繰り返し、9人の子を出産しています。
ついにフランス王妃になる 1547年フランソワ1世が死去し、夫のアンリ2世が即位し、カトリーヌはフランス王妃となります。
しかし、カトリーヌの心から憂いが消えることはありませんでした。
欲しいと思っていたロワールの美しいシュノンソー城も、与えられたのはディアーヌのでした。
カトリーヌはずっと夫の愛に飢えて、ディアーヌへの嫉妬に燃えていました。
子供たちはすくすくと育ち、3人の王子たちにも恵まれて、ヴァロア家は安泰のように思われていました。
長男であるフランソワにも、幼い婚約者メアリー・スチュアートが迎えられました。
このメアリーからも、カトリーヌは貴族の出ではなかったことから「商人女」などと陰口を叩かれていたそうです。
カトリーヌは占いが好きで、ノストラダムスにも相談をしていたそうです。
そして、ノストラダムスから死の予言を聞いてしまうのでした。
死の予言を恐れたカトリーヌ王妃!予言を信じて守った結末はどうなったのか?
アンリ2世の突然の死
馬上の槍試合
しかし、カトリーヌにとって忍耐の連続だった日々もようやく終わる時が来たのでした。
カトリーヌの天下がやってきたのでした。
夫アンリ2世の事故死から突然やってきた。
1559年夏のある日のこと、王は娘の結婚式での余興で、衛兵隊長のモンゴメリー伯爵と騎馬の模擬試合を披露することになった。
夫に先立たれ、目の上のコブだったディアーヌも追い出し、ついにカトリーヌの天下がやってきます。
「今日は娘エリザベートの婚礼の儀式じゃ、我がヴァロア家につたわる秘伝の馬術。宴の余興に披露するのも悪くなかろう」
モンゴメリー伯爵は相手が王であるということで気乗り薄であったが、王はやる気満々だった。
しかし始まってみると、緊張感から手元が狂ったのか、モンゴメリー伯爵の槍がアンリ2世の右目を突き抜け、脳の奥深くにまで達していた。
アンリ2世は昏睡状態におちいり、10日間生死をさまよった挙句、苦しみ抜いて死んだのです。
カトリーヌは、モンゴメリー伯爵を許そうとはしなかった。
「夫に死をもたらした伯爵を即刻逮捕するのです」伯爵は自分は故意でやったのではないと叫んだがあとの祭りだった。
この後、伯爵はなんとかイギリスに逃げ延び、エリザベス1世によってかくまわれることになる。執念深いカトリーヌは、懸賞金まで掛け、15年後には伯爵を捕らえて斬首してしまったそうです。
悪女と呼ばれた、カトリーヌ王妃
残虐行為
宗教、思想の違いで起こったフランスの宗教内乱、サン・バルテルミの虐殺につい ユグノー戦争 16世紀初頭から、フランスではカトリックとプロテスタントの対立が起こっていました。
プロテスタントとは1517年にマルティン・ルターによってローマ・カトリック教会から分離した新しいキリスト教派です。(カトリックを旧教と呼び、プロテスタントは反対に新教と呼ばれています。) フランスではカルヴァン主義の派閥を「ユグノー」とも呼んでいます。
ローマ帝国で認められたこの新教プロテスタントは、やがてフランスへも浸透していきます。
そしてカトリックとプロテスタント(ユグノー)両者の対立が大きくなり、いわゆる「ユグノー戦争」が勃発します。
1562年3月、ギーズ公フランソワが日曜礼拝に集まっていたプロテスタントを襲撃し、70人以上を虐殺した事件がこの宗教戦争のきっかけでした。
フランスではこの宗教戦争がその後35年間に渡って繰り広げられます。
カトリーヌ王妃は、死者1万人を超えるサン・バルテルミの虐殺の首謀者として歴史にその名を刻み、世界の残虐な王妃の一人として、必ずといっていいほどその名が上がります。
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しかし、彼女がサン・バルテルミの虐殺の首謀者だったということは多くの歴史家の見解ではあるが、確たる証拠はありません。
最後に
カトリーヌ王妃は、死者1万人を超えるサン・バルテルミの虐殺の首謀者として歴史にその名を刻み、世界の残虐な王妃の一人として、必ずといっていいほどその名が上がる人物です。
しかし、幼少期にはすごく苦労し、結婚後も不幸な人生を歩んだ人物でもあります。
今日も読んでくれてありがとうございました。
*1: 国王の位(王位)の継承順位が第一位の王子