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弥生時代になって日本ではじめて戦争が起きる!どんな証拠があるのか!

 

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もりもりです。

日本で、はじめで戦争が起きたのは弥生時代だといわれています。

それまでの縄文時代には戦争は起きなかったのに、なぜ、弥生時代になると戦争が起きたのか?

戦争が起きた理由についても調べてみました。

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弥生時代に戦争が起きたのはなぜ?

弥生時代に入ると、今までの「狩猟・採取」生活から、稲作生活に大きく変化し、安定した食糧が供給できるようになります。

 

「狩猟・採取」生活が野生の動植物に頼る受動的な食糧調達法だったのに対し、自分たちで計画的に食糧を生産する稲作は、当時としてはすごく画期的だった。

 

しかし、稲作が人類にもたらしたのは安定した食糧の確保だけではなく、「戦争」をももたらしたのです。

 

ふつうなら、「動物を殺して食べていた狩猟民は野蛮だが、農耕民は平和的」だ!

と思いますよね。

 

ところが、それは誤解だったのです。

 

「狩猟・採取」の時代は平和で暮していたのに、農耕が始まると戦乱の時代に入ってしまいました。

 

なぜ、戦争をもたらしたのか理由をあげてみましょう。

 

戦争をもたらした理由

・農地を増やさなければならない

・農具を獲得するため

 

農地を増やさなければならない

農耕が始まったおかげで、食糧の心配がなくなり、安住した生活が出来るようになります。

 

いっけん、平和に暮らせるようになり、良いことのように思えますよね。

 

たしかに、計画を立てて、ちゃんと畑を耕していれば食糧に困る心配がないのですから。

 

しかし、農耕が発達すればするほど人が集まり人口が増えてきます。

多くの食糧が必要になるということです。

 

つまり、農地を増やしていかなければならなくなるです。

 

誰も住んでいなかった土地。

前から住んでいた人から、土地を奪い取るしかありません。

 

つまり、戦争が始まるのです。

 

皮肉なことに、農耕で豊かになったことが、戦争の原因になるとは悲しいですね。

 

農具を獲得するため

弥生時代の後期になると、それまでの木製の農具が鉄製の農具へと変わっていきます。

 

木製の農具に比べて飛躍的に生産力が高まります。

 

 

 

しかし、鉄製の農具は国内で生産できず、朝鮮半島から輸入をしていたのです。

 

そのため、多くの鉄製の農具を輸入するため、たがいに交易権をめぐって集団どうしが争うようになったのでした。

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戦争があったとされる証拠

・防御施設の存在

・弥生時代の遺跡から出土した人骨

・弥生時代の遺跡から武器が多数出土した

 

防御施設の存在

弥生時代に入ると、ねずみなどの害虫から穀物などを守ったり、風通しを良くして保存する目的で高床式倉庫が現れはじめます。

 

住居までもが、高床に移すようになり、20〜30棟の住居と倉庫が濠(ほり)で囲んだ中で生活するようになります。

このような集落を「環濠集落」といいます。

 

環濠集落には、外敵からの攻撃を防ぐための「防御施設」が備えられていました。

 

また、高い丘陵の上に作られた集落も発見されており(高地性集落)、 これもやはり敵からの防御の必要性のため作られたものだと考えられています。

 

弥生時代の遺跡から出土した人骨

縄文時代にも武器はありましたが、戦争のためではなく、狩猟用か、あるいは遺体と一緒に埋める呪術的な道具だったのです。

 

考古学研究の結果によると、狩猟採集に基礎を置く縄文時代には集団と集団とがぶつかり殺し合う戦争のための武器は作らなかった。

まして、村の守りを固める必要もなかったようです。

 

殺されたことが確かな埋葬人骨もほとんどないみたいです。

 

しかし弥生時代の遺跡からは、石剣や銅剣、銅戈などが刺さった人骨が多く出土しています。

 

このような人骨は縄文時代の遺跡からは、ほとんど見つかっていないため、日本での戦争は弥生時代に始まったといわれているのです。

 

神戸市の新方遺跡の墓地・・・

神戸市の新方遺跡の墓地で、1列に葬られた男性3人の遺骨の中から、それぞれ石鏃が見つかっています。


そのうちの壮年から熟年のたくましい男性は、頭から胴と腕にかけて、17個もの鏃を射ち込まれていました。

 

いろいろな方向から弓矢で集中攻撃されたようです。

 

奈良市の四分遺跡・・・

1つの木棺に一緒に葬られた若い男女の遺骨のうち、女性のほうは胸の部分に石鏃が1本。

男性のほうは、背中や腰の左右から、鉄の武器で刺されたり切られたりした傷が数カ所、左の肩甲骨や左右の腸骨にある。

さらに左の目あたりが鋭利な凶器で骨までざっくりと削られているそうです。

 

弥生時代の遺跡から武器が多数出土した

銅剣・銅戈・銅矛・鉄剣・鉄刀など青銅器や鉄器などで作られた武器や盾や兜などが、弥生時代の遺跡から多数出土しています。

 

また、銅剣や銅戈、銅鐸などは祭器としても使用されたと考えられています。  

 

縄文時代から稲作はあった?

日本で稲作がスタートするのは紀元前11世紀頃といわれています。

 

歴史区分でいうと縄文時代の後期です。

 

稲作は弥生時代に入ってから、はじまったといわれていますが、考古学的調査の進展により「陸稲の形での稲作の起源は古く、大がかりな水稲耕作が普及したのが弥生時代だった」と捉えられています。

 

日本の食文化の象徴のようにいわれるコメ。

稲作自体は南方から伝わってきたものです。

 

水稲耕作は弥生時代に中国南部から朝鮮半島を経由して伝わって、それが東日本に広がったのです。

 

「日本のコメどころ」といえば東北地方を指しますが、日本の稲作の本家は西日本だったということになりますね。

まとめ

どんな理由があったとしても、戦争は多くの犠牲者を出し、なんのメリットもないと思います。

今日も読んでくれてありがとうございました。

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