もりもりです。
水戸黄門さま。
水戸黄門といえば、助さん、格さんという、2人の家来を引き連れて諸国漫遊(しょこくまんゆう)をし弱気を助け、強きをくじくという当時の庶民の救世主です。
その危機にさいして葵(あおい)の御紋を出して「この方をどなたと心得る。恐れ多くも先の中納言水戸光圀公にあらせられるぞ」の名セリフが出ると、悪人どもが、ハハァーとひれ伏します。
見ていて、スッキリしますよね。
・黄門の意味
・水戸黄門はほんとうに諸国をまわったの?
・徳川光圀が行った政策
についてお話ししますので最後まで読んでくださいね。
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黄門の意味は?
徳川光圀が「黄門様」と呼ばれるわけを知っている人は少ないと思います。
この「黄門」とは、中納言という官名の別称なのです。
中納言は、朝廷から与えられた官名ですが、朝廷の管制は、もともとは唐の律令制(りつりょうせい)にならってつくられたものです。
その本場中国で、門下生という役所の次官の役名を「黄門侍郎(こうもんじろう)」といっていました。
中納言は大政管の次官にあたり、その職が黄門侍郎に相当するところから、中納言光圀公を「黄門様」といったのです。
水戸黄門はほんとうに諸国をまわったの?
水戸黄門は水戸藩の二代藩主ですが、実際の光圀は諸国をまわったということはないようです。
徳川の封建主義(ほうけんしゅぎ)は、偉い人を勝手に一人歩きさせるようなシステムにはなっていなかったのです。
※封建主義とは
封土(収穫をうむような領土で、褒美や収入として臣下・家来に与えるもの)を与えたり受け取ったりすることによって成立する主人と臣下(家来)の関係。
上位の者が絶対的権力をもち、下位の者を従わせていくやり方。
ドラマや映画のような、黄門漫遊の話は、封建制度の悪政、重税に苦しむ人民が、救世主を期待して、作られた話なのでしょうね。
大河越前守(おおかわえちぜんのかみ)の人情さばきと同じようなものですね。
ドラマや映画などで見る黄門漫遊は、作り話しですが、黄門様はなかなかの名君だったようです。
文武を奨励(しょうれい)し、藩士の知行制の整備や検地(けんち)、領民統治に並々ならぬ政治手腕を発揮しています。
その光圀の功績の中で最も有名なのが、『大日本史』編纂(へんさん)という事業でしょうね。
光圀は江戸の藩邸に彰考館(しょうこうかん)という学問所を設け、栗山潜鋒(くりやませんぽう)、三宅観瀾(みやけかんらん)らの学者を集めて、この仕事にあたりました。
この彰考館の史官に佐々木助三郎という人がいました。
これがドラマや映画で登場する助さんです。
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徳川光圀が行った政策
徳川光圀は、寛文元年(1661)7月に、父の頼房が死によって、同年8月19日に跡を継いで水戸徳川家の第2代藩主になります。
そして、藩主になってすぐ光圀が出したのは「殉死禁止」の令です。
※殉死とは
殉死とは、主君や夫などの死を追って臣下や妻などが死ぬこと。
将軍が亡くなる度に、多くの武士が殉死しています。
3代将軍・徳川家光が死んだときも多くの大名や旗本が後を追って腹を切っています。
人命尊重の気持ちを募らせていた光圀は、父の死に対して藩の武士が腹を切ることを禁止します。
この厳命は守られて、水戸家では父・頼房の死に対する殉死者は1人も出ませんでした。
光圀が行った政策
●『大日本史』の編纂を続行する
●民政を重視し、農民の暮らしを豊かにする
●領内に水道を建設する
●よこしまな宗教を禁止する
●農民の負担を軽減するために、
雑税のいくつかを廃止する などであった。
そして相続人を定める方法である。
光圀は、「今後、水戸徳川家の相続は、四国高松の松平家と、交代で行なう」 と宣言し
兄・頼重の息子である綱条(つなえだ)を養子に迎えた。
頼重には、 「わたしの息子を、高松の世子にしてもらう」 と告げた。
頼重は、 「そこまでやらなくてもいいのではないか」 といったが、光圀は承知しなかった。
三男の自分が、兄の頼重を差し置いて水戸の当主になったことに、何ともいえないうしろめたさを感じていたようです。
『大日本史』の編纂を続行すると宣言したのも、そのためです。
18歳のときに読んだ、『史記』の「伯夷伝」に感動した光圀は、(日本にも、探ってみればこういう事例がたくさんあるのではないか。
それを掘り起こして整理し、後世に伝えよう) と思いたったようです。
そして、『大日本史』の編纂だけでなく、藩主になったときに約束した上水道も笠原水道として完成させます。
善政を行なったので、領民は光圀を「黄門様」と呼んで敬愛したのでした。
元禄13年(1700)12月6日、光圀は死んだ。
生前の行ないを偲んで「義公」と贈名された。
73歳だった。
まとめ
ドラマや映画のようなことはなかったみたいですが、歴史上で見る黄門様は善政を行ったので「黄門様」と民衆からも敬愛されていたんですね。
今日も読んでくれてありがとうございました。
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