もりもりです。
天下分け目の関が原の合戦を制し、その3年後に徳川家康は征夷大将軍(せいいたいしょうぐん)となり、1603年に江戸に幕府を開きます。
それから、第15代将軍徳川慶喜(とくがわよしのぶ)が1867年大政奉還(たいせいほうかん)*1を行うまで、江戸時代は、265年間も続いたのでした。
世界史の中でも類をみないほど長く続いた、〝独裁体制〟です。
なぜ、これほどまで長い間、独裁政治を続けることができたのでしょうか?
・富と権力の均衡を行った
・武士のほとんどは貧しかった
・徳川末期には三大改革を行った
などについて記事にしました。
最後まで読んでくださいね。
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富と権力の均衡を行った
・綿密な政治体制を確立した
将軍が無能であっても、老中以下の役人だけでも統治が可能にした
・大名普請や参勤交代等を行って、諸大名の経済力を早期から削いだ
軍資金の渇
・役職は自分の部下であった譜代大名と旗本のみに与え、外様を政治に参加させなかった
反対派の排除
これらのことが、江戸幕府が長きに続いた要因ではあります。
しかし、いちばんの理由は 〝富と権力の均衡〟で、農民や町人の反感を買わないような政治を行ったことです。
ヨーロッパの絶対王朝においては、冨と権力の両方を貴族階級が独占していました。
それに対して、江戸時代の武士が握っていたのは権力だけでした。
冨を支配していたのは裕福な町人だったのです。
武士のほとんどは貧しかった
武士のほとんどは貧しく、その点では農民や町人の反感を買うことはありませんでした。
身分としては確かに武士が、いちばん偉く威張っていたのですが、戦乱に世においては 武士の戦力は、領地と安全を守るうえで必要不可欠だっただけで なく、彼らはミスを犯したら切腹やあだ討ちなど「死」をもって責任をとらなければならなかったので、「怖いこと、難しいことはお武家さまにまかせておこう」という、認識がみなの間にあったのです。
こうして、いわば持ちつ持たれつの関係が続いて平和の世になり、町人文化といわれる江戸の 文化も花開いたのでした。
徳川末期には三大改革を行った
戦乱がなくなり、武士に対する風当たりは、しだいに強くなってきました。
とくに、切腹なども形骸化(けいがいか)した徳川末期においては、生産活動をしない武士は もはや社会のお荷物となってしまいました。
ゆるんだ武家支配を立て直すため、江戸時代には三大改革といわれる、享保(きょうほ)の改革、 寛政(かんせい)の改革、天保(てんぽう)の改革が行われましたが、
幕府政治を再建できませんでした。
そして、開国をきっかけとした討幕運動が高まる中、慶喜は大政奉還を行って政権を朝廷に返上することになったのです。
まとめ
各大名が謀反を起こさないような仕組みを作ったことが、265年も権力を維持することができたのではないでしょうか。
しかし、冨と権力のすべてを握らなかったのが、いちばんの要因でしょうか。
今日も読んでくれてありがとうございました。
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*1:徳川慶喜が征夷大将軍の資格を朝廷にお返しする、政権の返上です