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2.26事件太平洋戦争への悲劇への導火線となった事件

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 2.26事件は1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1.483名の下士官兵を率いてm起こしたクーデター未遂事件のことです。

 

悲劇に舞台となった太平洋戦争ですが、太平洋戦争の導火線となったのが、2.26事件だといわれています。

いったい、どんな事件だったのでしょうか?

 

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2.26事件について

場所:東京都

日時:1936年(昭和11年)2月26日~2月29日

概要:陸軍皇道派青年将校が、1.483名の下士官兵を率いて「昭和維新」と称して政府中師枢を襲ったクーデター未遂事件

原因:陸軍内部の派閥対立、軍ファシズム運動

兵器:機関銃、小銃、拳銃、銃剣、軍刀

死亡者:松尾伝蔵、高橋是清、斉藤実、渡辺錠太郎

負傷者:鈴木貫太郎

他の被害者:警察官5名殉職、1名重症

犯人:村中孝次、磯部浅一、安藤輝三、
栗原安秀、北一輝、西田税、他

関与者:真崎甚三郎、本庄繁、他皇道派将官

対処:首謀者の裁判、処刑

 

情報細統制された要人襲撃の詳

昭和11年(1936年)2月の東京は、たびたびの大雪に見舞われていた。

4日の夜は28.5cmと50年ぶりの大雪です。

 

25日夜半も30年来の積雪となり、帝都はしんと静まり返っています。

 

26日午前4時、香田清貞(こうだ きよさだ)大尉をはじめとする若い陸軍連隊の将校22人は、かねての打ち合わせ通り、非常呼集をかけて下士官らを起こして軍を出動させます。

 

一般兵士はこの日、青年将校たちが要人を襲撃するとは知らず、将校の指図通り、機関銃、拳銃、銃剣で武装し、「尊王(そんのう)」の幟(のぼり)を掲げて、永田町方向に分散して進軍します。

 

招集された兵士は約1400人にもなります。

 

夜はまだ明けず、雪のほの白さが目立つだけである。

青年将校指揮による日本最大といえる、反乱事件である2.26事件は、第一報によって全国民を震撼させます。

以下は新聞報道の内容です。

 

翌27日の東京日日新聞(昭和18年に毎日新聞と改称)は、次のように伝えています。

 

2月26日午後8時15分陸軍省発表

本日午前5時ごろ、一部青年将校達は左記個所を襲撃せり。

首相官邸、岡田啓介首相即死(実際は生存)

斉藤実内大臣私邸、内大臣即死、
渡辺錠太郎教育総監私邸、教育総監即死、

牧野伸顕前内大臣宿舎(湯河原伊藤屋旅館)、
牧野伯爵不明(実際は生存)、

鈴木貫太郎侍従長官邸、侍従長重症、

高橋是清大蔵大臣私邸、大蔵大臣負傷(実際は即死)、

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東京朝日新聞社

夜になっても、殺害された高橋蔵相負傷、避難して無事だった岡田首相が 即死と報道されたりして、かなり混乱がみられたのは、内務省、司法省、 陸軍省などが、徹底して情報統制したためだ。

全容は当初、なかなか知らされず、国民の間には情報が入り乱れて不安 をより大きくさせた。

2.26事件を利用し政治介入を容易にした陸軍

 

「義軍」が一転して「反乱軍」になってしまう

反乱事件について陸軍内部の処理はもたついた。

事件後、将校たちは川島義之陸軍大臣(陸相)に面談し、「真崎甚三郎大将を首班とした内閣をつくる」よう要求し、陸相は、「諸子の行動は、国体顕現の至情に基ずくものと認める」と、反乱を正当と認めるかのような告示をし、兵士たちを「義軍」扱いにした。

 

ところが、一転して27日、東京市に戒厳令が布告され、陸軍は29日、ホテルなどを占拠した青年将校と兵士らに対し、ビラとラジオ放送で将校の自決と、指揮された下士官(将校以下の兵)らの原隊復帰を促した。

 

配られたビラの「下士官兵に告ぐ」有名である。

 

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「天皇の命令」であるとして、「今からでも遅くないから原隊へ帰れ」「抵抗するものは全部逆賊であるから射殺する」「お前達の父母兄弟は国賊となるので皆泣いておるぞ」と、三行で書いてあった。

ここに「義軍」は「反乱軍」と反転する。

 

天皇の命となれば仕方なく、青年将校たちは同日武装を解除して鎮圧された。

 

指揮官2人は自決、他の首謀将校らと、襲撃計画の陰で事件を指導した右翼思想家北一輝、西田税の計19人は軍事裁判で死刑判決を受け、死刑が執行された。

 

こも事件は、太平洋戦争の導火線となったといわれる。

 

それは、「粛軍(しゅくぐん)」の名のもとに、陸軍がかえって強大になったためだった。

それにしても、反乱将校はなぜ要人襲撃を企てたのか。

 

昭和天皇の激怒

陸軍中央部の事件は、処理をめぐって天皇は激怒したという。

 

側近が、「青年将校たちの至純の情もおろそかにはできない」と進言すると、天皇は「朕(ちん)の股肱(ここう)の老臣を殺した凶暴の将校らを、どうして許せるのか」と怒り、鎮圧できないなら自分が乗り出すとまで言った。

 

この激怒で、陸軍は決起した部隊を反乱軍として制圧した。

<太平洋戦争知れば知るほど参照 >

まとめ

当時の陸軍には、皇道派」と「統制派」という二つの派閥がありました。

 

皇道派とは:天皇による親政を望み、そのためには武力行使もいとわないという、攻撃的な考え方をもつ集まり。

 

統制派とは:合法的に政府に圧力をかけて、自分たちが望む政治を行えるようにするという考えて方をもつ集まり。

 

2.26事件後、皇道派は天皇の命により統制派をはじめとする軍部により一掃されることになります。

 

時代は変われども、目的のためには武力をという考え方は時代が変われどよくことだと思いますね。

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