もりもりです。
古代の日本史、中央集権国家の誕生編です。
貴族社会はどのように生まれ、崩壊(ほうかい)していったのか?
大和朝廷の政治システムが確立し安定期を迎え、やがて崩壊する。
いわゆる飛鳥時代・奈良時代・平安時代のお話しです。
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律令制の導入したことで、一つの国家の形ができた!
諸説によると、大和朝廷は4世紀の中頃に誕生したそうですが、当初の大和朝廷は小国が集まってできた「寄り合い所帯」ような国だった。
それが、701年に「律令制」*1 が導入されたことで、ようやく一つの国家としての形ができたのです。
そんな、律令制は奈良・平安の時代には確立し、国内は安定時代を迎えたのですが、平安末期になると次第に崩壊していきました。
有力豪族たちの「土地の私有」が問題となる
「土地の私有」という問題が起きる。
土地を多く持っていれば、たくさんの農作物を耕し、多くの食糧を備蓄することができます。
つまり、最大の財産となるのです。
古代の有力豪族たちは、「広大な土地を私有」し、さらに人民も私有していたので、それを経済的・軍事的基盤として権勢を振るうことができたのです。
有力豪族たちとは逆に、土地私有を認めていたために、大和朝廷の首長である大王(おおきみ)*2は絶対的な権力を持てなかったのです。
聖徳太子の数々の政治改革や政界クーデターである大化改新などはみな、天皇に権限を集め、中央集権的な国家をつくろうとしたものです。
そうしなければ、豪族たちの力関係によって政界が常に揺れ動いてしまうからです。
しかし、土地の私有を認めていたため、これらの改革は十分に効果を挙げることができませんでした。
「土地の公有」の原則が決まるのは701年、大宝律令が定められ、律令制が確立されてからである。
これ以降、豪族たちは土地も人民も私有できなくなったかわりに、朝廷が人民から集めた税をもとに給料が支払われるようになったのです。
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貴族の時代を終焉(しゅうえん)させたのは?
平安末期に律令制が揺らいだ大きな原因も、「土地の公有」の原則が揺れたことにあります。
過酷な労働と重い税に苦しんだ農民が浮浪・逃亡するケースが続出し、しかも朝廷の財政を支える農地が不足するようになったため、朝廷はやむを得ず、開墾(かいこん)を奨励(しょうれい)するために土地の私有を認めます。
この私有地を「荘園」といいいます。
平安後期から増えていた「荘園」と呼ばれる私有地が広がっていったのです。
有力貴族や大寺院はその身分の力を使って私有地の免税特権を得ていたので、民衆も自分が開墾した土地を有力貴族や大寺院に寄進して免税の権利を得ようとした。
結果的にこれらの有力者に土地が集まり、権力を強めていったのである。
このため朝廷の支配力が相対的に弱まっていき、律令制は崩壊(ほうかい)へと向かったのだった。
当時の年表
6世紀半ば | 曽我氏の台頭(たいとう) | |
---|---|---|
589年 | 随、中国を統一 | |
593年 | 聖徳太子、摂政となる | |
600年 | 聖徳太子、隋に近臣を国情視察に送る | |
603年 | 冠位十二階の導入 | |
604年 | 憲法十七条制定 | |
607年 | 第一回遺髄使派遣 | |
対等外交に成功 | ||
645年 | 大化改新 | |
中大兄皇子・中臣鎌足、曽我氏を滅ぼす | ||
701年 | 大宝律令制定 | |
律令制にもとづく政治機構が整う | ||
710年 | 平城京遷都 | (へいじょうきょうせんと) |
741年 | 大仏建立の詔(しょう) | |
743年 | 墾田永年私財法 | |
荘園制が徐々に広まる | ||
794年 | 平安遷都 | |
1016年 | 藤原道長、摂政に就任 | |
摂関政治全盛 | ||
1086年 | 白河上皇による院政のスタート | |
武士の政界進出のきっかけに | ||
1156年 | 保元の乱 |
出典元:3日でわかる日本史
まとめ
一つの国家にまとめあげるには、相当な年月がかかったんですね。
今日も読んでくれてありがとうございました。
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